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年08月22日 歴史の中のif と「ナカとって主義者 TFK2 その16 ■歴史にifがあって何か問題でも? やっと夏休みになりました 朝起きて、今日は何をするんだっけ?と考えたときに、どこにも行かなくていい、誰にも会 わなくていいと思うと、ほんとうに「ありがたい」と思います で、この数日はずっと『街場のアメリカ論』の書き直しをしています。これは前にお話しし ましたけれど、去年大学院の演習でやったものです。その前の年に『現代日本論』という演 習を担当しました。もともとぼくが担当するような科目じゃないんですけど、担当の先生が 一年間留学でいなくなったので、一年だけぼくがピンチヒッターをやったのです そのときに、現代日本のいろいろなトピックを取り上げて、自由気ままなディスカッション をしたのですけれど、一年やってわかったのは、日本は「アメリカの影」だ、ということで した アメリカの影」だけじゃ意味不明ですけど、言い換えると、現代日本人が国際社会の中で 日本人は何ものであるか」を考えるときに、「アメリカ人から日本人はどんなふうに見え るだろうか」という問いを経由したかたちでしかナショナル・アイデンティティを立ち上げ られないのだということです そのことがが骨身にしみて実感されたのです。ペリーの浦賀来航以来、実に150年間にわ たってそうなんですよね なぜ、日本はナショナル・アイデンティティの隣接項としてアメリカを選ぶことになったの か?それはいつまで続くのか?そのことが気になって「アメリカ論」をやることにしまし た。アメリカ論といっても、教師も院生も聴講生も、アメリカ問題の専門家なんて一人もい ないんです。でも、それでいいというか、「それが」いいんじゃないかと思いました というのは、今回のテーマは「なぜ日本人はアメリカを欲望するか?」という問いが中心に なっているからです アメリカ問題の専門家って、アメリカ文学研究者にしても、アメリカ外交の専門家でも、ア メリカ史の専門家でも、アメリカン・ビジネスの専門家でも・・・要するに「アメリカを欲 望している人」ですよね。彼ら自身が「アメリカを欲望して」おり、かつ英語運用能力が高 かったり、アメリカの大学院で学位を取っていたり、アメリカのエスタブリッシュメントの 中に友人知己が多くいたりというかたちで「アメリカを欲望したことの効果として受益して いる」としたら、彼らは「日本人がアメリカを見る目にはどのような心理的バイアスがか かっているか?」という問いはあまり意識したくないんじゃないでしょうか? 日本人はなぜアメリカを欲望するのか?」という問いに適切な回答が与えられた場合、そ れによって欲望がさらに亢進するということはあまりないですね。ふつうは、「なるほど ね」と納得しちゃうと、「憑きもの」が落ちたように、やけつくような欲望が霧散してしま う・・・ということが起きたりするものです。でも、仮にそのように適切に欲望の構造が解 明されてしまった場合にアメリカ問題専門家は、彼らが現在享受している社会的威信や影響 力にいささかの翳りが生じることになります
  • 2012-10-06 05:28
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[C724]

な人はあまりいないような気がします だから、ほかのことならいくらでもお任せしていいんですけれど、「なぜ日本人はアメリカ を欲望するのか?」という論題はできたらアメリカ問題の非専門家がやる方がいいんじゃな いかなとぼくは考えたわけです。もちろん、ぼく自身を含めて今の日本にアメリカに対する 欲望や、アメリカとの利害関係をまったく持たない人間なんかいるはずがないので(例えば ぼくの場合なら、「フランス語履修者の激減」というかたちでけっこうリアルに英語帝国主 義に苦しめられているわけで)、「中立的な第三者」というような視点を不当前提するわけ にはゆきません。でもまあ、自分の思考や感覚に入り込んでいる「対アメリカ欲望」の腑分 けに興味をもっている人間の方が、そうでない人間よりはこういう仕事には向いているのか なと考えて、不肖ウチダが大ネタで「アメリカ論」を展開したわけであります 最近はそんな仕事をしてます そのときに平川君のヴァレリーの引用を拝読して、けっこう「来ました」 人間の手になる作品についての判断を損なう多くの誤りは、それらの発生状態に対する奇 妙な忘却によるものである。人はしばしば、作品が前から存在していたわけではないことを 忘れてしまう。 歴史というのはほんとうにそういうものだと思うんです ぼくたちはいまある制度や文物を「それが今存在する以上は、存在すべき必然性があったの であろう」というふうに必ず「必然性」を上積みして評価してしまいます。でも、この「上 積み」の値幅がどうも大きすぎるような気がするんですよ たまたま」ということってあるでしょう?ほんとに「たまたま」ということって 歴史にイフはない」というのはよく口にされる言葉です ぼくが歴史の話を始めて、勝手な思弁を暴走させているとしばしばこの言葉で饒舌を遮られ ます もし慶応三年に坂本龍馬が京都近江屋で横死していなかったら、明治のエートスというのは ずいぶん違うものになっていたであろう、とか高杉晋作が明治末年まで生きていたら、山県 有朋が長州閥を仕切って日本陸軍をあのようなものにすることはできなかったのでは・・・ というようなことを口走ると、「ウチダくん、歴史に『if』はないよ」と話を切り上げられて しまう でも、平川君、「if」というのは、ひとりの人間がその場にいるかいないかで状況は変わると いうことについて、つまり個人に託された現実変成能力を信じる人間にとってはつい口を衝 いて出る言葉じゃないかと思うんです 誰がやっても同じだ」とか「オレなんかいなくても、何も変わりゃしないよ」とかいう言 葉がぼくは嫌いです。そういうことを言う人間は、自分の歴史への干渉力を控えめに評価し ているように見えますけれど、実は「責任」を負う気がないんだと思うんです 道路にゴミが落ちていますね。そういうときに、「オレがこんなところで空き缶一個拾っ たって、世界のゴミが減る訳じゃない」というようなことをいう人間て、ぼく嫌いなんで す いいから、黙って拾えよ。キミが一個拾えば、確実にゴミは一個減るんだから ゴミの話じゃなくて、例えば政治的にカタストロフィックな状況で、「オレ一人が正論吐い たって、もうどうにもならんよ」と言ってシニカルに頬をひきつらせるやつがいますね。あ れも嫌いなんです、ぼくは まず隗より始めよ」という言葉があるじゃないですか いま、与えられた状況でできることから始めるというかたちでしか歴史にはコミットできな いし、自分のなしている
  • 2012-10-06 05:34
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[C725]

を超えてゆく。ぼくはそんなふうに思っています 歴史には無数の転轍点があり、そこでしばしば取り返し不能の分岐がなされるのですが、決 定的局面で「キャスティング・ボート」を投じる人は、自分が決定のトリガーを引いたこと をたぶん死ぬまで知りません 歴史におけるif」を語るというのは、今ここにあるように世界があるのとは違う仕方でも世 界はありえたという想像力の使い方です。その「起こりえたけれど、起こらなかった出来 事」について、「それはどうして起こらなかったのか?」ということを考えるのはたいせつ なことだと思います(これは「白銀号事件」のときのシャーロック・ホームズの推理法です ね。「あの晩、なぜ犬は鳴かなかったのか?」) そういう推理を一度もしたことのない人間が「世界は今あるようになるべきだったのであ る」とまるで永遠の真理であるかのように言うのを聞くと、ぼくは深い違和感を覚えるので す ■極論の人、ナカ取る人 このところ平川君がブログ日記で郵政民営化について書いていることを読んで、いつも深 く納得しています。特に先日のブログ日記にはわが意を得た感がしました。平川君はこう書 いています 大きな政府と小さな政府のどちらを選ぶんだと問われれば、俺は、『そうねぇ、中ぐらい がいいんじゃないの』とあいまいに答えるしかない とぼけているわけではない 大きな政府は息苦しいだろうし、小さな政府は弱肉強食のゼロサム社会を加速させるに違 いないと思うからである。 政治的言説は必ず「極論」になります。これはぼくたちは骨身にしみて知っていることです ね。ある個別的論点について具体的なある政策的提言をしたとします。その提言そのもの は、「まあ、そういう考え方もありかな」というような妥当性の範囲内にあったとしても その提言を論理的に無矛盾的に展開してゆくと、どこかで「それは無理筋でしょう」という ところまで突き抜けてしまいます 例えば、身体加工はどこまで許されるかというときに、ピアッシングやタトゥーくらいは まあ、許容範囲かな(オレはやんないけど)」という判断を下せるとしても、「では」と いうので、「おしゃれ」のために指を切り落とすとか、舌を二枚におろすとか、ワイヤーを 口の端からつきだして「猫顔」にするとか(これ全部ほんとうの話です)いう身体加工も あり」か、と問われると、「それは『やりすぎ』でしょう・・・」と言わざるを得ませ ん。性器切除や造膣手術で性転換する人の自己決定権を認めるのが政治的に正しいとすごま れても、「そういうのは、ちょっとどうかと思うんですけど・・・」と歯切れが悪くなる この「いや、理屈ではそうだけどさ、ちょっと、それは・・・」という感覚ってけっこうた いせつなんじゃないかとぼくは思うんですが、その「理屈ではそうだけど・・・ちょっと という言葉がなかなか聞き届けられない オール・オア・ナッシングってそんなにいいものなんでしょうか?ぼくにはどうもそんなふ うに思えません 郵政民営化によるメリットはこのへんで、デメリットはこのへん・・・じゃ、ナカとっ て」というのが「三方一両損」の大岡裁き以来の日本の「調停の王道」だったと思うんで す。この「ナカとり名人」のような人がまあ日本では伝統的に「保守本流」というところに 居座っていたわけですね ナカを取る」ということは言い換えると「達成すべき理想像がない」ということです ヴィジョンがない」という
  • 2012-10-06 05:36
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[C726]

の「いや、理屈ではそうだけどさ、ちょっと、それは・・・」という感覚ってけっこうた いせつなんじゃないかとぼくは思うんですが、その「理屈ではそうだけど・・・ちょっと という言葉がなかなか聞き届けられない オール・オア・ナッシングってそんなにいいものなんでしょうか?ぼくにはどうもそんなふ うに思えません 郵政民営化によるメリットはこのへんで、デメリットはこのへん・・・じゃ、ナカとっ て」というのが「三方一両損」の大岡裁き以来の日本の「調停の王道」だったと思うんで す。この「ナカとり名人」のような人がまあ日本では伝統的に「保守本流」というところに 居座っていたわけですね ナカを取る」ということは言い換えると「達成すべき理想像がない」ということです ヴィジョンがない」ということは(平川君の言葉を使えば)「指南力がない」ということ ですし、武道的に言えばつねに「後手に回る」ということです。だから、左右両翼の「理想 論」の間で、「ナカ取って」主義者たちは「理念がない」「政治哲学がない」「国際社会に むけて発信すべきメッセージがない」という嘲罵を浴びてきた。でもその代償として、彼ら は戦後60年間、権力と財貨と情報をそれなりに占有してきたわけです 刻下の日本の危機というのは、ある視点から言うと、この「ナカ取って主義」の没落という かたちを取っているのではないでしょうか。「ヴィジョンなきナカ取って論者」よりも クリアーカットな極論」を語る人間の方が旗色がよいんです。「わけのわからないことを もごもご言う人間」には、昔はそれなりの「芸」というか存在感というか迫力があったと思 うんです。だいたい調停役の人は「これからオレが言うことを、黙って『うん』と呑んでく れるとまず約束して欲しい」というようなめちゃくちゃな交渉をするわけですが、そういう やり方がそれなりに有効であったということは、論理の不整合を人格的な厚みが補償してい たからだと思うんです その「人格的厚みによる論理的不整合の補填」という戦略が、どこかで機能しなくなってき た。今はもう「国士」とか「フィクサー」とか「キング・メーカー」といわれるような人は いなくなりましたね。それは政策決定プロセスが合理化されて、そういう政治的機能が必要 なくなったということではなく、そういう政治的機能を担えるだけの度量のある人間が払底 しつつあるということではないかと思うんです。体系的な政治思想に準拠してではなく そんへんは許容できるけれど、このへんはちょっとなあ・・・」というようなアバウトな 身体感覚を規矩として政治判断をすることのできる「太い」人間がいなくなってしまったよ うな気がするんです そのことを最近ホットな論件である靖国問題でもすごく感じるんです。高橋哲哉の『靖国問 題』と小林よしのりの『靖國論』を読み比べてみて、どうしてこの人たちは「対立者をもふ くめて日本を代表しうるような論」の水準を探そうとしないのだろう・・・とちょっと暗い 気持ちになってしまいました この件について、ちょっと平川君のご意見も聴いてみたいと思っています(来月の朝日新聞 に書くことになってるんで)。ご意見お聞かせください ではでは
  • 2012-10-06 05:38
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[C727]

4年05月10日 アメリカン・フェミニズムの最後の形姿 その30 2004年5月10日 内田 樹から平川克美へ 平川君こんにちは その29から30まで間をあけちゃってすみません イラクの情勢がどうなるのかなと少し眺めていたのです ほかの人が言いそうなことを、ここで繰り返してもしかたがないですけど、あまりに一方的な事態の展開に これでは、誰でも同じ感想持つよね・・・」ということで、やる気をなくしていたのでした 今日は、ちょっと「やる気」の出る出来事があったので、イラク戦争「余話」ということで、ひとつ書かせて もらいます イラク戦争がもたらしているとどめがたい精神的な退廃は、イラク人囚人に対する米兵たちの拷問というかた ちで露出してきました。この事件はおそらく今後アメリカが中東において維持できる政治的影響力に取り返し のつかないダメージを与えることになると思います イラクの囚人たちが受けた身体的ダメージを、単に定量的に見ただけなら、「敵性分子」である囚人たちを裸 にして殴打したり、マスターベーションをさせたりしたことは、非戦闘員である女性や子どもたちに無差別爆 撃を加えた虐殺に比べると、ずっと「まし」なものに思えるかもしれません しかし、軍事行動の中でなされた殺人と、治安維持の大義のもとになされた拷問では、「汚さ」の質が違いま す おそらくこの「汚さ」に傷ついたアラブの民衆は、今後長期にわたってアメリカに対するぬぐいがたい生理的 な嫌悪感を持ち続けることになるでしょう この数名の兵士による愚行が、どれほどアメリカの長期的な国益を損なったかは、ほとんど計量不能です。彼 らによって今後アメリカが失うはずのものをドルに換算して「自己責任論」を問う人がいたら(まさかアメリ カにはいないでしょうが)、きっと一人あたり天文学的な数字の「賠償金」を要求されることになるでしょう ね 今さらブッシュ大統領が謝罪しても、ラムズフェルド長官が辞任しても、アメリカは「ポイント・オブ・ ノー・リターン」を超してしまったという気がします それは、このような露骨なアラブ人蔑視が、ヒステリー状態の兵士の暴発としてではなく、むしろ練度の低い 兵士の「鼻歌まじり」の暇つぶしにおいて露出したからです フロイトを引くまでもなく、人間の「抑圧された欲望」は、どうでもよいような「失錯」において顕在化しま す イラク人民をアメリカ的民主主義の恩恵に浴せしめるための人道復興支援」という普遍主義的な大義名分 のもとになされた軍事行動が、「アラブ人は自分たちと同じ種族に属さない『人間以下』の生物だ」という生 理的な嫌悪感を情緒的な基盤のうちに含んでいたことを、この事件ははしなくも露呈してしまいました この事件の国際政治的な意味については、これから多くの人が分析をしてくれるでしょうから、それは専門家 に任せておくとして、ぼくが興味を持ったのは、この拷問の犯人に二人の女性兵士が含まれていたことです 占領軍の女性兵士による被占領民男性の性的虐待というのは、少なくとも近代以降においてはきわめて例外的 な事例だろうと思います。しかし、それが他ならぬアメリカ軍の女性兵士によってなされたということに、ぼ く自身は深く納得しました デミ・ムーアの『GIジェーン』という、きわめて後味の映画を見たときに、いずれ「こんなこと」になるだ ろうなと思っていましたので、「やっぱりね」という感じです ぼくはですからこの事件はアメリカ覇権主義の終焉であると同時に、アメリカン・フェミニズムの終焉をも実 は意味していると思っています アメリカ女性が「銃を取る権利」を主張したのは、もちろんあらゆる場面における男女平等を要求したフェミニズムの社会的「正しさ」をアメリカ国民が承認したからです。ひさしく女子禁制であったウェストポイント 陸軍士官学校とアナポリスの海軍士官学校が女性の入学を認めたのは1976年のことでした ぼくは男女共同参画社会とか、男女同権というイデオロギーに対してはつねに懐疑的です(そのせいでフェミ ニストからは男権主義的セクシストの権化のように忌み嫌われているのはご案内のとおりですが) 女性も兵士になる権利がある」というこのフェミニストの要求も、深い違和感をもって受け止めた記憶があります。それは60年代に高級官僚養成校であるENA(国立行政院)が女性学生の受入れを決めたときのボーヴォワールの発言に感じた違和感と同質のものです。

[C728]

ストからは男権主義的セクシストの権化のように忌み嫌われているのはご案内のとおりですが) 女性も兵士になる権利がある」というこのフェミニストの要求も、深い違和感をもって受け止めた記憶があ ります。それは60年代に高級官僚養成校であるENA(国立行政院)が女性学生の受入れを決めたときのボーヴォ ワールの発言に感じた違和感と同質のものです ボーヴォワールは「男性の占有している社会的リソースを女性にも配分せよ」というフェミニストの立場から 女性エリートの出現を歓迎しました。けれども、そのとき、女性エリートに拍手を送ることが同時に「エリー トは偉い」という通俗的な価値観に同意署名していることには彼女はあえて目をつぶりました もしこの社会がフェミニストの言うとおり、男性中心主義的に編成されるというのがほんとうなら(これはた しかにほんとうです)、その社会で高い地位や大きな権力やたくさんの情報を手に入れるためには、出世を望 む女性たちは既存の男性中心主義的な原理を内面化し、進んで「男性化」する他ありません。けれども、女性が「男性化」し、パワーエリートとして社会的リソースを独占することを勧奨することのどこかすばらしい社 会理論なのか、ぼくにはじつはさっぱり腑に落ちないのです 権力とか威信とか情報とか名誉とか、そんなものにいかほどの価値があるんでしょう そういうことを言うと、「そんな気楽なことが言えるのは、あなたが男性で、社会的リソースを占有している からだ」という反論をされます でも、ぼくはこの反論には納得がいきません。仮にぼくがいささかでも社会的リソースを所有しているとして も、それはぼくが「男性だから」手に入れたものとは思われないからです だって、ぼくが誇れるほぼ唯一の社会的リソースは「誰に向かっても、好きなだけ悪口を言う自由」ですけれ ど、それは多くの男性は所有していませんし、そもそも所有することを望みさえしないものですからね ボーヴォワールはこの社会ではすべて価値あるものには「男性性の印が刻印されている」と言い切りましたけれども、それを変えることよりも、それを「分配する」ことを優先させました。ぼくはこれが現代フェミニズ ムの「最初のボタンの掛け違い」じゃないかと思っています 女性には女性固有の「対抗文化」があり、それがこのばかばかしい男性中心主義社会の中で人間たちが傷つき 壊れてゆくのをなんとか防止する社会的に重要な役割を果たしているとぼくは考えています フェミニストのいうとおり、この社会は男性中心主義的なくだらない制度を山のように含んでいます。それな のに、それらの制度を無害化するために、その男性中心主義社会の価値観に同意して、その中で競争相手を蹴落としても出世して、権力を握って、決定権を奪還して、その上で、制度そのものを改善する・・・というの は、やっぱりことの順序が変です だって、そうですよね どんな組織においても、その組織の中で出世を果たした人間は、その組織が本質的に「正しく機能している という信憑をぬぐい棄てることができません 私を入会させるようなクラブには入りたくない」と言い切ったのはグルーチョ・マルクスですが、こんなこ とを言えるのはグルーチョだけです。ふつうの人は「私を入会させるクラブだけが入るに値するクラブだ」と いうふうに考えてしまうものです ですから、女性エリート志願者が、とりあえず男性中心主義社会の価値観への同意署名と引き替えに出世を果 たして、その社会で枢要な地位を占めることができるようになった場合、当の枢要なる女性は彼女をそこへと 導いた社会プロセスについて、ラディカルな批判をすることに強い心理的抵抗を感じることになるでしょう 仕方ないですよね ろくでもない制度のもたらす災厄を無害化しようと思ったら、その制度を統制できる立場になるまでその制度を温存し、機能させることよりも、「あれはよくないから、みんなコミットしない方がいいよ」と説得する方 がずっと「まっとう」なやり方のようにぼくは思います けれども、ほんとうに不思議なことに、こういう考え方に賛成してくれる人は(グルーチョ・マルクスを除い ては)ほとんどいません 女性文化は一種の対抗文化だと思うのには個人的な理由もあります ぼく自身は子育てのあいだ、とくに「主夫」をしていた12年間は、まるで「女性ジェンダー化」していました。しかたがないですよね。ご飯作ったり、お風呂に入れたり、つくろいものをしたり、寝かせたり起こした りするときには、「お母さん」的なエートスにどっぷり浸かっていないと、ひとこと発することさえできませ ん。「ご飯よ!」とか「いつまで、寝てるの。もう、しかたのない子ねえ」とか、ね でも、そういうふうに「お母さん」をやって分かったこともたくさんあります いちばん大きな収穫はジェンダーが本質的に「演技」だということだけでなく、その「演技」をしていると その性役割が「内面化する」ということです ぼくはわりと野心的な青年で、30代はじめまで、けっこう学問的なサクセスを志向していたのですが、「お 母さん」になろうと決意したときに、ついでに学界的な立身出世もあきらめました。だって、学界的サクセス というのは、ほとんど憑かれたように寝食を忘れて学問に打ち込むことなしには不可能なんですけれど、私が 寝食を忘れ

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  • 2012-10-07 06:03
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ホッホグルグルのなぞ

ホッホグルグルはよく笑う。けれどなにが原因で笑ったのか、周りの人間は理解できない。だからホッホグルグルが笑うと、少しざわつく。それはホッホグルグルの笑い声が甲高く、大きいからで、ホッホグルグルが笑い、注目が集まり、ホッホグルグルは満足し、笑いをやめる、ように見える。だからホッホグルグルはたんに注目を集めたいだけかもしれない。ホッホグルグルは寂しがりやなのだ。もっとホッホグルグルに近づいて、肩を叩き、その鼻をにぎりしめて、ふりまわし、ありったけの力を込めて投げ飛ばしてやればホッホグルグルは奇声をあげて喜ぶだろう。ホッホグルグルが笑っている。みんな見ている。映画を見るべき場所で、静かにしないといけない場所でホッホグルグルは非常にうるさい。係の人を呼ぼうか、映画の台詞が全然聞こえない。ホッホグルグルの鳴き声だけで映画は動いている。いい感じの映画だったのに、きっとこれから何度も見直して、大好きな映画としていろんな人に紹介しようと思っているのに。まったくどうしてくれる、ホッホグルグルよ、お前のせいで、映画に集中できない。お前の鳴き声のことしか頭に入ってこない。ぐるぐるぐるーるるるる、ぐるぐるぐるーるるるる、がこだましている。係の人はこない。しかし、きたところで何もできないだろう。ホッホグルグルを静かにさせることはできない。なぜならホッホグルグルは空想上の人物だから。実体のないものだから。
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年08月22日 歴史の中のif と「ナカとって主義者 TFK2 その16 ■歴史にifがあって何か問題でも? やっと夏休みになりました 朝起きて、今日は何をするんだっけ?と考えたときに、どこにも行かなくていい、誰にも会 わなくていいと思うと、ほんとうに「ありがたい」と思います で、この数日はずっと『街場のアメリカ論』の書き直しをしています。これは前にお話しし ましたけれど、去年大学院の演習でやったものです。その前の年に『現代日本論』という演 習を担当しました。もともとぼくが担当するような科目じゃないんですけど、担当の先生が 一年間留学でいなくなったので、一年だけぼくがピンチヒッターをやったのです そのときに、現代日本のいろいろなトピックを取り上げて、自由気ままなディスカッション をしたのですけれど、一年やってわかったのは、日本は「アメリカの影」だ、ということで した アメリカの影」だけじゃ意味不明ですけど、言い換えると、現代日本人が国際社会の中で 日本人は何ものであるか」を考えるときに、「アメリカ人から日本人はどんなふうに見え るだろうか」という問いを経由したかたちでしかナショナル・アイデンティティを立ち上げ られないのだということです そのことがが骨身にしみて実感されたのです。ペリーの浦賀来航以来、実に150年間にわ たってそうなんですよね なぜ、日本はナショナル・アイデンティティの隣接項としてアメリカを選ぶことになったの か?それはいつまで続くのか?そのことが気になって「アメリカ論」をやることにしまし た。アメリカ論といっても、教師も院生も聴講生も、アメリカ問題の専門家なんて一人もい ないんです。でも、それでいいというか、「それが」いいんじゃないかと思いました というのは、今回のテーマは「なぜ日本人はアメリカを欲望するか?」という問いが中心に なっているからです アメリカ問題の専門家って、アメリカ文学研究者にしても、アメリカ外交の専門家でも、ア メリカ史の専門家でも、アメリカン・ビジネスの専門家でも・・・要するに「アメリカを欲 望している人」ですよね。彼ら自身が「アメリカを欲望して」おり、かつ英語運用能力が高 かったり、アメリカの大学院で学位を取っていたり、アメリカのエスタブリッシュメントの 中に友人知己が多くいたりというかたちで「アメリカを欲望したことの効果として受益して いる」としたら、彼らは「日本人がアメリカを見る目にはどのような心理的バイアスがか かっているか?」という問いはあまり意識したくないんじゃないでしょうか? 日本人はなぜアメリカを欲望するのか?」という問いに適切な回答が与えられた場合、そ れによって欲望がさらに亢進するということはあまりないですね。ふつうは、「なるほど ね」と納得しちゃうと、「憑きもの」が落ちたように、やけつくような欲望が霧散してしま う・・・ということが起きたりするものです。でも、仮にそのように適切に欲望の構造が解 明されてしまった場合にアメリカ問題専門家は、彼らが現在享受している社会的威信や影響 力にいささかの翳りが生じることになります
  • 2012-10-06 05:28
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な人はあまりいないような気がします だから、ほかのことならいくらでもお任せしていいんですけれど、「なぜ日本人はアメリカ を欲望するのか?」という論題はできたらアメリカ問題の非専門家がやる方がいいんじゃな いかなとぼくは考えたわけです。もちろん、ぼく自身を含めて今の日本にアメリカに対する 欲望や、アメリカとの利害関係をまったく持たない人間なんかいるはずがないので(例えば ぼくの場合なら、「フランス語履修者の激減」というかたちでけっこうリアルに英語帝国主 義に苦しめられているわけで)、「中立的な第三者」というような視点を不当前提するわけ にはゆきません。でもまあ、自分の思考や感覚に入り込んでいる「対アメリカ欲望」の腑分 けに興味をもっている人間の方が、そうでない人間よりはこういう仕事には向いているのか なと考えて、不肖ウチダが大ネタで「アメリカ論」を展開したわけであります 最近はそんな仕事をしてます そのときに平川君のヴァレリーの引用を拝読して、けっこう「来ました」 人間の手になる作品についての判断を損なう多くの誤りは、それらの発生状態に対する奇 妙な忘却によるものである。人はしばしば、作品が前から存在していたわけではないことを 忘れてしまう。 歴史というのはほんとうにそういうものだと思うんです ぼくたちはいまある制度や文物を「それが今存在する以上は、存在すべき必然性があったの であろう」というふうに必ず「必然性」を上積みして評価してしまいます。でも、この「上 積み」の値幅がどうも大きすぎるような気がするんですよ たまたま」ということってあるでしょう?ほんとに「たまたま」ということって 歴史にイフはない」というのはよく口にされる言葉です ぼくが歴史の話を始めて、勝手な思弁を暴走させているとしばしばこの言葉で饒舌を遮られ ます もし慶応三年に坂本龍馬が京都近江屋で横死していなかったら、明治のエートスというのは ずいぶん違うものになっていたであろう、とか高杉晋作が明治末年まで生きていたら、山県 有朋が長州閥を仕切って日本陸軍をあのようなものにすることはできなかったのでは・・・ というようなことを口走ると、「ウチダくん、歴史に『if』はないよ」と話を切り上げられて しまう でも、平川君、「if」というのは、ひとりの人間がその場にいるかいないかで状況は変わると いうことについて、つまり個人に託された現実変成能力を信じる人間にとってはつい口を衝 いて出る言葉じゃないかと思うんです 誰がやっても同じだ」とか「オレなんかいなくても、何も変わりゃしないよ」とかいう言 葉がぼくは嫌いです。そういうことを言う人間は、自分の歴史への干渉力を控えめに評価し ているように見えますけれど、実は「責任」を負う気がないんだと思うんです 道路にゴミが落ちていますね。そういうときに、「オレがこんなところで空き缶一個拾っ たって、世界のゴミが減る訳じゃない」というようなことをいう人間て、ぼく嫌いなんで す いいから、黙って拾えよ。キミが一個拾えば、確実にゴミは一個減るんだから ゴミの話じゃなくて、例えば政治的にカタストロフィックな状況で、「オレ一人が正論吐い たって、もうどうにもならんよ」と言ってシニカルに頬をひきつらせるやつがいますね。あ れも嫌いなんです、ぼくは まず隗より始めよ」という言葉があるじゃないですか いま、与えられた状況でできることから始めるというかたちでしか歴史にはコミットできな いし、自分のなしている
  • 2012-10-06 05:34
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[C725]

を超えてゆく。ぼくはそんなふうに思っています 歴史には無数の転轍点があり、そこでしばしば取り返し不能の分岐がなされるのですが、決 定的局面で「キャスティング・ボート」を投じる人は、自分が決定のトリガーを引いたこと をたぶん死ぬまで知りません 歴史におけるif」を語るというのは、今ここにあるように世界があるのとは違う仕方でも世 界はありえたという想像力の使い方です。その「起こりえたけれど、起こらなかった出来 事」について、「それはどうして起こらなかったのか?」ということを考えるのはたいせつ なことだと思います(これは「白銀号事件」のときのシャーロック・ホームズの推理法です ね。「あの晩、なぜ犬は鳴かなかったのか?」) そういう推理を一度もしたことのない人間が「世界は今あるようになるべきだったのであ る」とまるで永遠の真理であるかのように言うのを聞くと、ぼくは深い違和感を覚えるので す ■極論の人、ナカ取る人 このところ平川君がブログ日記で郵政民営化について書いていることを読んで、いつも深 く納得しています。特に先日のブログ日記にはわが意を得た感がしました。平川君はこう書 いています 大きな政府と小さな政府のどちらを選ぶんだと問われれば、俺は、『そうねぇ、中ぐらい がいいんじゃないの』とあいまいに答えるしかない とぼけているわけではない 大きな政府は息苦しいだろうし、小さな政府は弱肉強食のゼロサム社会を加速させるに違 いないと思うからである。 政治的言説は必ず「極論」になります。これはぼくたちは骨身にしみて知っていることです ね。ある個別的論点について具体的なある政策的提言をしたとします。その提言そのもの は、「まあ、そういう考え方もありかな」というような妥当性の範囲内にあったとしても その提言を論理的に無矛盾的に展開してゆくと、どこかで「それは無理筋でしょう」という ところまで突き抜けてしまいます 例えば、身体加工はどこまで許されるかというときに、ピアッシングやタトゥーくらいは まあ、許容範囲かな(オレはやんないけど)」という判断を下せるとしても、「では」と いうので、「おしゃれ」のために指を切り落とすとか、舌を二枚におろすとか、ワイヤーを 口の端からつきだして「猫顔」にするとか(これ全部ほんとうの話です)いう身体加工も あり」か、と問われると、「それは『やりすぎ』でしょう・・・」と言わざるを得ませ ん。性器切除や造膣手術で性転換する人の自己決定権を認めるのが政治的に正しいとすごま れても、「そういうのは、ちょっとどうかと思うんですけど・・・」と歯切れが悪くなる この「いや、理屈ではそうだけどさ、ちょっと、それは・・・」という感覚ってけっこうた いせつなんじゃないかとぼくは思うんですが、その「理屈ではそうだけど・・・ちょっと という言葉がなかなか聞き届けられない オール・オア・ナッシングってそんなにいいものなんでしょうか?ぼくにはどうもそんなふ うに思えません 郵政民営化によるメリットはこのへんで、デメリットはこのへん・・・じゃ、ナカとっ て」というのが「三方一両損」の大岡裁き以来の日本の「調停の王道」だったと思うんで す。この「ナカとり名人」のような人がまあ日本では伝統的に「保守本流」というところに 居座っていたわけですね ナカを取る」ということは言い換えると「達成すべき理想像がない」ということです ヴィジョンがない」という
  • 2012-10-06 05:36
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[C726]

の「いや、理屈ではそうだけどさ、ちょっと、それは・・・」という感覚ってけっこうた いせつなんじゃないかとぼくは思うんですが、その「理屈ではそうだけど・・・ちょっと という言葉がなかなか聞き届けられない オール・オア・ナッシングってそんなにいいものなんでしょうか?ぼくにはどうもそんなふ うに思えません 郵政民営化によるメリットはこのへんで、デメリットはこのへん・・・じゃ、ナカとっ て」というのが「三方一両損」の大岡裁き以来の日本の「調停の王道」だったと思うんで す。この「ナカとり名人」のような人がまあ日本では伝統的に「保守本流」というところに 居座っていたわけですね ナカを取る」ということは言い換えると「達成すべき理想像がない」ということです ヴィジョンがない」ということは(平川君の言葉を使えば)「指南力がない」ということ ですし、武道的に言えばつねに「後手に回る」ということです。だから、左右両翼の「理想 論」の間で、「ナカ取って」主義者たちは「理念がない」「政治哲学がない」「国際社会に むけて発信すべきメッセージがない」という嘲罵を浴びてきた。でもその代償として、彼ら は戦後60年間、権力と財貨と情報をそれなりに占有してきたわけです 刻下の日本の危機というのは、ある視点から言うと、この「ナカ取って主義」の没落という かたちを取っているのではないでしょうか。「ヴィジョンなきナカ取って論者」よりも クリアーカットな極論」を語る人間の方が旗色がよいんです。「わけのわからないことを もごもご言う人間」には、昔はそれなりの「芸」というか存在感というか迫力があったと思 うんです。だいたい調停役の人は「これからオレが言うことを、黙って『うん』と呑んでく れるとまず約束して欲しい」というようなめちゃくちゃな交渉をするわけですが、そういう やり方がそれなりに有効であったということは、論理の不整合を人格的な厚みが補償してい たからだと思うんです その「人格的厚みによる論理的不整合の補填」という戦略が、どこかで機能しなくなってき た。今はもう「国士」とか「フィクサー」とか「キング・メーカー」といわれるような人は いなくなりましたね。それは政策決定プロセスが合理化されて、そういう政治的機能が必要 なくなったということではなく、そういう政治的機能を担えるだけの度量のある人間が払底 しつつあるということではないかと思うんです。体系的な政治思想に準拠してではなく そんへんは許容できるけれど、このへんはちょっとなあ・・・」というようなアバウトな 身体感覚を規矩として政治判断をすることのできる「太い」人間がいなくなってしまったよ うな気がするんです そのことを最近ホットな論件である靖国問題でもすごく感じるんです。高橋哲哉の『靖国問 題』と小林よしのりの『靖國論』を読み比べてみて、どうしてこの人たちは「対立者をもふ くめて日本を代表しうるような論」の水準を探そうとしないのだろう・・・とちょっと暗い 気持ちになってしまいました この件について、ちょっと平川君のご意見も聴いてみたいと思っています(来月の朝日新聞 に書くことになってるんで)。ご意見お聞かせください ではでは
  • 2012-10-06 05:38
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[C727]

4年05月10日 アメリカン・フェミニズムの最後の形姿 その30 2004年5月10日 内田 樹から平川克美へ 平川君こんにちは その29から30まで間をあけちゃってすみません イラクの情勢がどうなるのかなと少し眺めていたのです ほかの人が言いそうなことを、ここで繰り返してもしかたがないですけど、あまりに一方的な事態の展開に これでは、誰でも同じ感想持つよね・・・」ということで、やる気をなくしていたのでした 今日は、ちょっと「やる気」の出る出来事があったので、イラク戦争「余話」ということで、ひとつ書かせて もらいます イラク戦争がもたらしているとどめがたい精神的な退廃は、イラク人囚人に対する米兵たちの拷問というかた ちで露出してきました。この事件はおそらく今後アメリカが中東において維持できる政治的影響力に取り返し のつかないダメージを与えることになると思います イラクの囚人たちが受けた身体的ダメージを、単に定量的に見ただけなら、「敵性分子」である囚人たちを裸 にして殴打したり、マスターベーションをさせたりしたことは、非戦闘員である女性や子どもたちに無差別爆 撃を加えた虐殺に比べると、ずっと「まし」なものに思えるかもしれません しかし、軍事行動の中でなされた殺人と、治安維持の大義のもとになされた拷問では、「汚さ」の質が違いま す おそらくこの「汚さ」に傷ついたアラブの民衆は、今後長期にわたってアメリカに対するぬぐいがたい生理的 な嫌悪感を持ち続けることになるでしょう この数名の兵士による愚行が、どれほどアメリカの長期的な国益を損なったかは、ほとんど計量不能です。彼 らによって今後アメリカが失うはずのものをドルに換算して「自己責任論」を問う人がいたら(まさかアメリ カにはいないでしょうが)、きっと一人あたり天文学的な数字の「賠償金」を要求されることになるでしょう ね 今さらブッシュ大統領が謝罪しても、ラムズフェルド長官が辞任しても、アメリカは「ポイント・オブ・ ノー・リターン」を超してしまったという気がします それは、このような露骨なアラブ人蔑視が、ヒステリー状態の兵士の暴発としてではなく、むしろ練度の低い 兵士の「鼻歌まじり」の暇つぶしにおいて露出したからです フロイトを引くまでもなく、人間の「抑圧された欲望」は、どうでもよいような「失錯」において顕在化しま す イラク人民をアメリカ的民主主義の恩恵に浴せしめるための人道復興支援」という普遍主義的な大義名分 のもとになされた軍事行動が、「アラブ人は自分たちと同じ種族に属さない『人間以下』の生物だ」という生 理的な嫌悪感を情緒的な基盤のうちに含んでいたことを、この事件ははしなくも露呈してしまいました この事件の国際政治的な意味については、これから多くの人が分析をしてくれるでしょうから、それは専門家 に任せておくとして、ぼくが興味を持ったのは、この拷問の犯人に二人の女性兵士が含まれていたことです 占領軍の女性兵士による被占領民男性の性的虐待というのは、少なくとも近代以降においてはきわめて例外的 な事例だろうと思います。しかし、それが他ならぬアメリカ軍の女性兵士によってなされたということに、ぼ く自身は深く納得しました デミ・ムーアの『GIジェーン』という、きわめて後味の映画を見たときに、いずれ「こんなこと」になるだ ろうなと思っていましたので、「やっぱりね」という感じです ぼくはですからこの事件はアメリカ覇権主義の終焉であると同時に、アメリカン・フェミニズムの終焉をも実 は意味していると思っています アメリカ女性が「銃を取る権利」を主張したのは、もちろんあらゆる場面における男女平等を要求したフェミニズムの社会的「正しさ」をアメリカ国民が承認したからです。ひさしく女子禁制であったウェストポイント 陸軍士官学校とアナポリスの海軍士官学校が女性の入学を認めたのは1976年のことでした ぼくは男女共同参画社会とか、男女同権というイデオロギーに対してはつねに懐疑的です(そのせいでフェミ ニストからは男権主義的セクシストの権化のように忌み嫌われているのはご案内のとおりですが) 女性も兵士になる権利がある」というこのフェミニストの要求も、深い違和感をもって受け止めた記憶があります。それは60年代に高級官僚養成校であるENA(国立行政院)が女性学生の受入れを決めたときのボーヴォワールの発言に感じた違和感と同質のものです。

[C728]

ストからは男権主義的セクシストの権化のように忌み嫌われているのはご案内のとおりですが) 女性も兵士になる権利がある」というこのフェミニストの要求も、深い違和感をもって受け止めた記憶があ ります。それは60年代に高級官僚養成校であるENA(国立行政院)が女性学生の受入れを決めたときのボーヴォ ワールの発言に感じた違和感と同質のものです ボーヴォワールは「男性の占有している社会的リソースを女性にも配分せよ」というフェミニストの立場から 女性エリートの出現を歓迎しました。けれども、そのとき、女性エリートに拍手を送ることが同時に「エリー トは偉い」という通俗的な価値観に同意署名していることには彼女はあえて目をつぶりました もしこの社会がフェミニストの言うとおり、男性中心主義的に編成されるというのがほんとうなら(これはた しかにほんとうです)、その社会で高い地位や大きな権力やたくさんの情報を手に入れるためには、出世を望 む女性たちは既存の男性中心主義的な原理を内面化し、進んで「男性化」する他ありません。けれども、女性が「男性化」し、パワーエリートとして社会的リソースを独占することを勧奨することのどこかすばらしい社 会理論なのか、ぼくにはじつはさっぱり腑に落ちないのです 権力とか威信とか情報とか名誉とか、そんなものにいかほどの価値があるんでしょう そういうことを言うと、「そんな気楽なことが言えるのは、あなたが男性で、社会的リソースを占有している からだ」という反論をされます でも、ぼくはこの反論には納得がいきません。仮にぼくがいささかでも社会的リソースを所有しているとして も、それはぼくが「男性だから」手に入れたものとは思われないからです だって、ぼくが誇れるほぼ唯一の社会的リソースは「誰に向かっても、好きなだけ悪口を言う自由」ですけれ ど、それは多くの男性は所有していませんし、そもそも所有することを望みさえしないものですからね ボーヴォワールはこの社会ではすべて価値あるものには「男性性の印が刻印されている」と言い切りましたけれども、それを変えることよりも、それを「分配する」ことを優先させました。ぼくはこれが現代フェミニズ ムの「最初のボタンの掛け違い」じゃないかと思っています 女性には女性固有の「対抗文化」があり、それがこのばかばかしい男性中心主義社会の中で人間たちが傷つき 壊れてゆくのをなんとか防止する社会的に重要な役割を果たしているとぼくは考えています フェミニストのいうとおり、この社会は男性中心主義的なくだらない制度を山のように含んでいます。それな のに、それらの制度を無害化するために、その男性中心主義社会の価値観に同意して、その中で競争相手を蹴落としても出世して、権力を握って、決定権を奪還して、その上で、制度そのものを改善する・・・というの は、やっぱりことの順序が変です だって、そうですよね どんな組織においても、その組織の中で出世を果たした人間は、その組織が本質的に「正しく機能している という信憑をぬぐい棄てることができません 私を入会させるようなクラブには入りたくない」と言い切ったのはグルーチョ・マルクスですが、こんなこ とを言えるのはグルーチョだけです。ふつうの人は「私を入会させるクラブだけが入るに値するクラブだ」と いうふうに考えてしまうものです ですから、女性エリート志願者が、とりあえず男性中心主義社会の価値観への同意署名と引き替えに出世を果 たして、その社会で枢要な地位を占めることができるようになった場合、当の枢要なる女性は彼女をそこへと 導いた社会プロセスについて、ラディカルな批判をすることに強い心理的抵抗を感じることになるでしょう 仕方ないですよね ろくでもない制度のもたらす災厄を無害化しようと思ったら、その制度を統制できる立場になるまでその制度を温存し、機能させることよりも、「あれはよくないから、みんなコミットしない方がいいよ」と説得する方 がずっと「まっとう」なやり方のようにぼくは思います けれども、ほんとうに不思議なことに、こういう考え方に賛成してくれる人は(グルーチョ・マルクスを除い ては)ほとんどいません 女性文化は一種の対抗文化だと思うのには個人的な理由もあります ぼく自身は子育てのあいだ、とくに「主夫」をしていた12年間は、まるで「女性ジェンダー化」していました。しかたがないですよね。ご飯作ったり、お風呂に入れたり、つくろいものをしたり、寝かせたり起こした りするときには、「お母さん」的なエートスにどっぷり浸かっていないと、ひとこと発することさえできませ ん。「ご飯よ!」とか「いつまで、寝てるの。もう、しかたのない子ねえ」とか、ね でも、そういうふうに「お母さん」をやって分かったこともたくさんあります いちばん大きな収穫はジェンダーが本質的に「演技」だということだけでなく、その「演技」をしていると その性役割が「内面化する」ということです ぼくはわりと野心的な青年で、30代はじめまで、けっこう学問的なサクセスを志向していたのですが、「お 母さん」になろうと決意したときに、ついでに学界的な立身出世もあきらめました。だって、学界的サクセス というのは、ほとんど憑かれたように寝食を忘れて学問に打ち込むことなしには不可能なんですけれど、私が 寝食を忘れ

[C733]

  • 2012-10-07 06:03
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