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ちょおちょ

「ちょおちょ」

 あこが笑うとゆるい風が僕の額をさわさわと触りながら抜けていくよう。
 あこは僕の子で、当然、妻の子で、しかしあこがまだ乳児で母乳を必要とする頃、妻には夫以外に恋人がいて、つまり不倫していて、ある日電話で「ハンバーグと冷奴が冷蔵庫に入ってるからじゃあね」と言ったきりどこかへ消えてしまった。僕は冷たいハンバーグを温めもせず、冷奴とともに食べながら、豆腐ハンバーグを作ったら手間が省けたのに、とのん気なことを考えていた。妻とはそれきり会っていないし顔も見ていないし話もしていない。
 それからすくすくと育っているあこはまだそれに関して意見を言うだけの語彙も経験も持っていないが、最近、母親というものがいないということに、他の家族を見て気づきはじめたようである。「みんなにはどうしてとおちゃんがふたついるの?」と、ほんの少し寂しそうな顔をするようになった。まだ知らないほうがいいかと僕は勝手に考えていて、「でもあこはとおちゃんひとりだけでいいでしょ?」「うん、ふたついたら、くちゃい」「臭いとはどういうことぞ」「しーらない」そういう流れに持っていき、曖昧に濁している。僕の悪い癖で説明し難い問題はできるだけ先送りにしてしまうのだ。先送りにしたところで何の解決もしないどころか、ますます言いにくくなってしまうだけなのに、そういうことを僕は平気でやってしまっている。
 妻が、僕とあこの前からいなくなって、僕たちは今の家に引っ越してきた。今は誰も住んでいない僕の実家であるこの一戸建ては広かったが、代わりに古く、ところどころ修繕の必要があって、僕は不慣れながら、とんとんと釘を打ったり、板を貼り付けたりして、なんとか家の崩壊を防いでいた。
 家には庭があって、といってもやはり広い立派なのではなく何の手入れもしていない雑草の生い茂ったただの無駄な空間なのだけれど、僕はそこで、あことふたりきりでぼんやりと過ごすのが好きで、その時間は、妻に捨てられた僕の心をゆっくりと癒してくれた。
 ひと段落付いて、今日も僕はあこと庭先の廊下に座ってぼんやりとする。
 あこは2分もたたずにきゃっきゃきゃっきゃと動き回る。何が楽しいのか分からないけれど、あこの笑顔を見ているとそれだけで、何もいらないと思ってしまう。だから、僕は妻はいなくなったけれど、薄々は気づいていた僕よりも男前で財産も持っている彼氏とどこかで楽しくやっているんだろうけど、僕にはあこがいるんだ、と胸を張って言えるから、あこを置いて行ってくれてありがとう、と思う。あこを生んでくれてありがとう。もしかしたら僕の遺伝子は持っていないのかもしれないけれど、そうだとしてもかまうものか。いやこの鼻の低さはきっと僕の遺伝だ。そうだそうにちがいない。あこ、申し訳ありません。
 僕の足元にやってきてあこは騒ぎ出す。
「とおちゃ、あこすき?」「大好き」「おんと?」「ほんと」「じゃあけっこんしてくれる?」「あこが大きくなってもとおちゃんのことを好きでいてくれたらしてあげる」「ずっと好き」あこは僕のことが大好きで、一番近い人間なのだから当然といえば当然だけれど、何か話し掛けるといえばこんなことを聞いてきた。聞きながら、彼女はほどけている靴紐をむすんでくれた。それはこの庭で過ごすときの定例の儀式みたいなものだった。あこがじっと紐を見ていて、それからふっとこちらを見上げ、ニシッ、と崩れるように笑ってから、再び紐とにらめっこをはじめ、いびつな蝶々を作り上げた。一応むすべているから、上達したのだ。最初は途中で投げ出して大泣きしたものだった。子供は親が知らぬうちにどんどん成長する。母親などいなくとも。いびつな蝶々を見て僕は思った。 
 そんなことを考えているとほんの少し、本当にほんの少しだけ寂しくなってそれをごまかすために僕はその生まれたての蝶々ができるだけ自由に飛び回っているように、とびきり陽気に狭い庭を走り回った。雑草を踏み倒して踊り狂った。あこはポカンと妙なものを見るようにこちらを見ていたが、やがて崩れたように笑いだす。ゆっくりと吹いた風に乗って、僕はらんらんと舞った。やけに甲高いあこの笑い声が空に届いた。
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